昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。

半端ではない雷雨に会いました。
朝から少し降り出していたので、ホテルの傘を借りて外出していたのですが、そのうち本降りになってきました。
サンマルコ広場の両替商が免税手続きのコーナーを兼ねているので、そこで手続きをしていたのですが、雨音で分厚いガラスの向こうの担当者の女性が何を言っているのかよく聞こえません。
インド系と思しきイタリア女性が、英語で日本人にめんどうな手続きを説明するというただでさえややこしい状況にも関わらず、これが半分も聞こえないのです。
とうとう彼女はマイクを引っ張り出してきたので、こちらはスピーカーに耳を付けるようにしてどうにか了解しました。やれやれ、やっと済んだ、と思って振り返った瞬間にのけぞるほど驚きました。
ここはスパゲッティの国ですが、讃岐うどんほどもある雨が轟々と音を立てて真っ暗になった空から降っています。
広場の屋根のある部分はすでに避難した観光客で一杯。
「わっ!」と驚くと、すぐ後ろにいたドイツ人女性がくすくす笑います。が、すぐあとに大きな雷鳴がとどろき、彼女を含めて数十の国語で悲鳴があがりました。
このあと、広場を抜けるのに30分以上かかったのですが、ふと振り返るとサンマルコ寺院の屋上テラスに1人傘を手にたたずむ人影。豪雨の中、孤独に広場の雨にまどう数千人を見下ろしています。
あの人はただの観光客だったのか、それとも過去からやってきたベネチア総督の誰かのユーレイだったのか…

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昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。

ペギー・グッゲンハイムさんのことは、昨年ご紹介させていただきました。
鉄鋼王、グッゲンハイム一族の「跳ね返り」お嬢さん、現代美術のコレクターとして
ヨーロッパを舞台に活躍された方で、今そのお宅がグッゲンハイム美術館の分館になっています。
ペギーさんのお墓に詣でてきました。
お墓といっても、美術館の庭の一番端を区切って、壁に墓誌を刻んだだけのとてもシンプルなものです。ご本人のほか、歴代の飼い犬たちの名前と生没年が「私の可愛い子供たち」と刻まれていて、中には似たような名前でほぼ同じころに亡くなっているものもいるので、非常な愛犬家だったことがわかります。
このお墓の隣に一本の木があります。それはなんと呼ばれる種類かは分かりませんが、オリーブのような緑の濃い背の低い木で、木の下にはプラスチックの小さなカードケースにライトブルーの縁取りのあるカードと鉛筆が納められています。
これは実はオノ・ヨーコさんの「ペギーに捧ぐ」作品で、タイトルが「Wish Tree」と付けられています。参観者が自分の願いをカードに記して、この木の枝に突き刺していくという参加型の作品になっています。「木が皆の願いで一杯になるまで。」カードを付けて欲しい、というオノ・ヨーコさんのメッセージがあり、見ていると若いカップルや子供たちが次々と願いをカードに記していきます。木は、丁度日本の神社のおみくじを結ぶ木のように、もうすぐ願い事で一杯になりそうです。
プライベートでは結婚に破れたり、才能ある娘さんを早くに亡くしたりしたペギー・グッゲンハイムさんでしたが、愛犬たちや皆の願い事に囲まれて、少しもさびしくなんかない、という様子。
亡くなって後も、ハンサム・ウーマンです。

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ご当地ウォーター

2011年01月06日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。

日本にも、わがアルピナを初め数多くのお水のブランドがありますが、いつぞや「ふつうミネラルウォーターっていったら、PとかEとかVとかなのに、なんでイタリアにはあんなにたくさんのサンなんとかというミネラルウォーターがあるの?」というお話しを聞いたことがあります。ブランドの数は本当に多いように思いますが、それぞれ「ご当地」の水があって、レストランなどで頼むとご当地モノが出てくる確率が多かったように記憶しています。ミラノだとサン・Pだとか、ベネチアだとサン・Bだとかになるのです。
ところが、サン・Bの天下であるはずのベネチアも、空港にこそ巨大なサン・Bの看板がかかっていますが、街中では熾烈なたたかいが展開されているようです。やはりメジャーどころのサン・Pの攻勢も激しいようですが、日本ではもっぱらインスタントコーヒーのメーカーとして知られる某スイス系巨大食品会社が自社ブランドで「健康によい」お水を打ち出していたりもします。中でも街中の露店で売っていたりするようなミネラルウォーターは、日本ではあまりなじみのない「LILIA」というブランドが一般的になっていました。
そんなある日、例によってお水を切らしてしまったため「ホテルの水道水」を試してみました。まあ、今日日大変なことになることもないだろうとタカをくくってのんだのですが、これが凄い。恐らく運河の水をミネラルウォーターで薄めたらこんな味になるのではないかというお味でした。同業他社の皆様のためではありませんが、どうかあの街ではミネラルウォーターをお買い上げ下さい。「水で水を洗う」たたかいでお値段もこなれてきております。(ああ、ひとごとではありません。)
どうか本年もアルピナをよろしくおねがいいたします。

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海上レストラン

2010年12月25日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。


海上レストラン、というと某有名マンガに出てくるあれを思い浮かべる方もおられると思いますが、この街には本当に海上のレストランがいくつかあります。
泊まったホテルのレストランも実はそんな感じで、室内にもちゃんと席があるのですが、メインの席は大運河上に張り出した大きなテラスの上です。見上げれば緑と白のストライプの日よけのテント、足元の床板の間からは時々ちゃぷちゃぷと打ち寄せる波の音が聞こえてきます。
テラスの隣はホテルの桟橋になっていて、到着したり出発したりするお客のボートがやってきます。お客さんを乗せたゴンドラが通ったり、相変わらず満載状態の水上バスが通ったりもします。目の前には船首のかざりに青いカバーを被せたゴンドラが何隻も係留中です。本体のテラスからはさらに張り出した特別席があり、そこだけは2人席になっています。きっとこれはうれしはずかし新婚さん専用のお席なのでしょう。対岸にはサルーテの教会がなんだかタージマハルの小型版のような姿を見せています。その隣はなにやら延々と工事中で、ちょっと風情をそがれるのですが。雨が降っても大丈夫。スタッフがスイッチを入れると数秒で透明なスクリーンが下りてきます。
ところがこのテラス席は鳥たちにも特等席らしく、ちょっと目を離すとハトやらスズメやらがパンくずをつつきにやってきます。ウェイターさんたちが大げさな身振りで追い払ってもすぐにかえってきてしまい、図太い奴などはテラスの手すりに止まって隙をうかがっています。席をはずそうとして、ふと振り返ると小鳥がテーブルに乗っていたりすることも。
サン・マルコ広場のハトさんも、観光客の頭上数センチのところを飛んでいったりしますが、鳥たちの根性がすわっているのもお国柄なのでしょうか。



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二階建てなり

2010年11月10日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。


ベネチアの海洋歴史博物館の一角に、「ブチントーロ」と呼ばれる船の模型があります。
これは、かつて「アドリア海の女王」と呼ばれたベネチアがその威厳を示すために、毎年行っていた「海との結婚」という行事のためだけに使われていたベネチア総督の専用船です。「結婚式」にはもちろん指輪がつきもの。海の意志も尋ねることなく「われわれは汝、海と結婚する。」と勝手に厳かに宣言してドボンと指輪を投げ込んでいたとか。実はこの「指輪」も展示されているのですが、巨大な緑色の石が嵌ったそのリングはといえば、かなり大柄な女性でも、脚にはめても大丈夫なくらいの大きさ。「ポニョ」のお母さんくらいならなんとか「指輪」になるかもしれません。
さて、そのブチントーロなのですが、豪華絢爛。甲板は2重になっていて、総督や貴族の乗る上層の甲板はまるで舞踏会場のような寄木細工になっていて、金箔を施した名工の手になる彫刻がぐるりと取り巻いています。長さは30メートル以上あったといいますから、まさに浮かぶ宮殿。総督や貴族の面々が乗り組んだブチントーロはさぞかし壮観だったことでしょう。また、模型の隣には実際にブチントーロで使われていた豪奢な総督の椅子が展示されています。
さて、下の方の甲板に目を転じますと、これが簡素なベンチがぎっしり詰め込まれた粗末な作り。ここはオールを持った漕ぎ手たちの席です。まあ儀式の時にそれほどの距離を移動するわけでもないのですが、それでも上と下とではえらい違いです。身分制度のない世の中に生まれたことを感謝した、はずでした。
帰路、某航空会社ご自慢の総二階建ての新鋭機に乗せていただいた時のこと。上の階は豪華な個室のファーストクラスとビジネスクラス。お食事は選べるコース、ワインとシャンパン、行き届いたサービス、洗練されたインテリアでごゆっくりお寛ぎいただけます。まさに空飛ぶ豪華ホテルです。われわれ下の階はといえば前から後ろまでぎっしりとひざカックンのエコノミークラスの座席。あれあれ、これってどこかで見たことがありますよね。まあ、我々下の階の住人が漕がなくても飛行機は飛んでくれますので、文句を言ってはバチがあたりますが。



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海洋歴史博物館(1)

2010年10月21日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。


サンマルコ広場から、総督の宮殿前を通ってラグーンに面した大通りを下っていったところに、「海洋歴史博物館」というかなり大きな博物館があります。何の変哲もない建物なのでうっかり通り過ぎてしまうかもしれませんが、人の背丈より大きな船の碇が、エントランス前に飾られているのが目印です。
入館すると、通常の国営博物館と違ってごく簡単な入場券売り場で、愛想のいいおじちゃんが30年位前の映画館の切符のような入場券を売ってくれます。エントランスホールには大昔の大砲や、「ウェットスーツを着た兵士がまたがって乗る小型潜水艇」などというイタリア軍のびっくり秘密兵器などがなんだか無造作においてあります。
しかし、このなんとなくやる気のなさそうな博物館は、ベネチアがいかにして「地中海の女王」になったのかを熱く語ってくれるのです。
展示は中世の交易用の帆船やオールでこぐガレー船(実物の船首もあります)、総督の豪華絢爛極まる御座船から、ナポレオンがベネチア共和国をオーストリアに引き渡す条約にサインした時のペン、各種のゴンドラから世界大戦の時の軍艦、はてはわが日本の豊臣秀吉の旗印や大阪の商店の法被までと極めて充実しています。
ところでこの法被、マネキンが着ているのですが、懐にはちゃんと年季の入ったソロバンが一丁はさんであるのです。「ベネチアの皆さん、儲かりまっか~。」
(ぼちぼちと、つづきますわ)


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船いろいろ

2010年10月12日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。


船が交通の主体の街とはいえ、本当に色々な船が行きかっています。
例えばゴミの収集も船でやってきますが、街角ごとのゴミステーションに寄るというわけにも行かないので、ある程度台車に集積してから台車ごとクレーンで船に…乗せるのかと思いきや、台車の底がガバと開いてその中身を船のゴミコンテナに移します。ところでこのクレーンにメーカー名が黒く「FERRARI」と書いてあるのですが、多分スポーツカーメーカーとは全く関係ないと思います。こんな使われ方をしている「フェラーリ」も世の中にあるんだと妙に感心したりして。
そうかと思うと、電器屋さんが大型テレビの納品にやってきました。船の上には納品を待つ洗濯機だか冷蔵庫だかが積んであり、まだまだお得意様を回る様子です。その隣では青物屋さんがオレンジの箱を降ろしていて、終わると鼻歌交じりにハンドルならぬ舵輪を握ります。運河がほとんど船の幅位しかないところでも全く動じる様子はありません。それどころか橋が非常に低いところがあり、お兄さんはちょっと首をすくめながらも余裕で通っていきます。POLIZIAのマークがある、青と白のパトロールボートがやってきます。運河の両側にニラミを利かせる女性警察官はなかなかの美人さんで、行きかう船のお兄さんたちの注目を集めていますので、かえって交通の安全を妨げるかもしれません。
あるとき、水上タクシーに乗ったところ、運転の中年男性の隣に13,4歳位の少年が立ってロープ結びや荷物運びを手伝っています。おそらくこの船の二代目なのでしょう。こうして世代から世代へと絶妙な操船技術が伝えられていくのかもしれません。



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昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。



俺はマルコといいます。よろしく。今日は俺のゴンドラに乗ってくれてありがとう。このモイカ運河からマルコ・ポーロの生家を回って、大運河に出てから帰ってくる大体45分のコースになるよ。

ゴンドリエーレになるには、ゴンドリエーレの家の男の子に生まれるしかないんだ。俺の家は俺で7代目。俺は今32歳で、他には妹がいるだけなので、俺の代で最後になっちゃったよ。妹は「サチコ」っていう日本風の名前ももっているんだ。ゴンドラを始めて漕いだのは12歳の時だったな。20歳で独り立ちしたけど、冬は仕事がないんで、勉強したり自分の好きなことをしたりできて、のんびりできる自由ないい仕事さ。今ベネチアでは120人位かな。

運河が大きく曲がっているところに差し掛かると、警告と挨拶代わりに、今みたいに声を掛けることになっている。ゴンドラは俺が立っている左側のほうが比較的曲がっていて、反対側のほうがまっすぐになっている。これはゴンドリエーレひとりひとりに合わせた特注なんだ。で、右側に体重の重い人、左側に軽い人が乗ってもらうことになっている。だから女の人は左だよ。ほら、今前の方に見えているあの家ね、あれがマルコ・ポーロの家だよ。建ってから600年以上経っている。マルコ・ポーロは13世紀にここから中国まで旅したひとだよ。GPSなんかなしでね。
ほら、リアルト橋のところに出たよ。橋の下でキスしているカップルがいるだろ。そうすると幸せになるといわれているんだぜ。えへへ。

あそこにゴンドラ3艘並べて歌を歌っているシンガーね、あいつは上手なヤツだよ。シンガーは結構いるんだけど、うまいのは三人だけだな。それから今の家だけどね、この500年間、ずっと同じ一家が住んでいる家だよ。すごいだろ。右側は商工会館だ。きれいなステンドグラスだろう。

いま船首をぐるっと回して逆さ漕ぎしてるけど、これは船着場につけるためだから、大丈夫だよ。さて、着いた。落っこちないように俺の手をつかんで一人づつ降りてくれ。

今日は乗ってくれてありがとうな。チャオ。

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水都ふたたび(2)

2010年09月08日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。


一見したところの観光客の種類が十数年前よりも確実に増えていました。どこでも観光地での定番観光客はアメリカ人、ドイツ人、日本人ではないかと思われるのですが。ときおり非常に流暢な日本語が聞こえてくるかと思うと、それを話しているのがどこから見てもイタリア人のガイドさんなので、びっくりすることがあります。
世界進出著しい中国の団体様は、もちろんいらっしゃるかと思うと、あちらの広場の端では修学旅行生と思しき少年少女を前に韓国の先生が熱弁をふるっています。(先生、水場に片足かかっちゃってます…)多くなったなと思うのは、ベールをかぶったムスリムの女性で、ドバイやカタールなど、経済の勃興いちじるしい国の方なのでしょうか、中には真っ白な民族衣装とベールのとても上品なマダムがベビーカーを押している姿もあります。原色の鮮やかな色の服が良く似合うアフリカ系の方も多いです。すぐお隣のクロアチアの旗を掲げたガイドさんがサンマルコ寺院の入場の列に自分の団体さんを並べています。ベネチアガラスの小さな店に入ったところ、天井から大きなランプを取り外して丁寧に梱包中。それを待ちどうしそうに見守っている男性は、流暢な英語で「こんなのをもう20年もさがしていたんだ。これから車で家族と一緒にこれをモスクワまでもって帰るんだよ。」と話してくれました。ある日ホテルに帰ると、アメリカから来た正統派のユダヤ教徒の団体様が一杯で、男性は全員ひげを生やしてカッパのお皿のような小さな黒い帽子を頭に載せています。とても礼儀正しくてフレンドリーな方々なのですが、食事だけはいつも別席。厨房にもやはりひげを生やした専任のコックさんが到着していました。彼らの食卓には恐らく生ハムは出ないのでしょう。ホテルにはムスリムの家族も多く滞在していて、多様なひとたちが仲良く共存しているのがベネチアであります



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水都ふたたび(1)

2010年08月28日

昔昔、貧乏旅行が趣味でした。暇をみつけては色々な場所に出かけたものです。(とはいっても本格的な旅人の方々から見ると、お笑いなのですが)そんな中から『水』にまつわる思い出を書いてみたいと思いますので、お付き合い下さい。


十数年ぶりにベネチアを訪れることができました。しばらく仕事を休ませていただいた罪滅ぼしに若干のご報告させていただきたいと思いますので、宜しくお付き合いのほどお願いします。

「ベニスの停車場に着く者は、この宮殿の裏玄関から入るに等しい」(トーマス・マン ベニスに死す)

マルコ・ポーロの名を冠するベネチア空港は、数年前に改築されたらしく、ピカピカの最新の空港になっておりました。手荷物の回転台はカジノのルーレットのようにナンバーが書かれて楽しげな雰囲気ですが、荷物が無くなるのも賭けだったりしたらいやだなあ。
空港の隣の船着場から、実際のベネチアが始まります。有翼の黄金の獅子の、数百年の昔から変わらないあの旗が迎えてくれます。ここから水路ベネチア本島に向かうのです。
水路には白く塗った丸太を組み合わせた標識が両側にあり、ところどころで空港に向かう船とすれ違いますが、お互いに容赦のないスピードで飛ばしているため、相手の立てた波に乗っかってすごいことになることもあります。
やがて、ガラスの島のムラーノや、静寂の島のサン・ミケーレが目に入ってくると、本島はもうそろそろです。
ベネチアは、ほぼ魚の形をしていますが、空港から水路正面玄関のサンマルコ広場へと向かう場合、この尻尾の付け根の部分にあたる運河を通過することになります。両側に建物の立ち並ぶ運河を抜け、サンマルコ広場正面の水路に出ると、息をのむばかりの船の群れです。各国の国旗を押し立てた大きなクルーザーや、大小のヨット。「バポレット」と呼ぶ乗り合い水上バス。ゴンドラ。浮かぶホテルのような数万トンクラスのクルーズ客船が煙突から煙をたなびかせ、そのデッキからは、大勢の人たちが広場を眺めています。
やがて、サンマルコ広場の鐘楼や寺院、総督の宮殿、あいもかわらず観光客で一杯の広場が見えてくると、冒頭に引用した「ここがベネチアの正面玄関なのだ。」という文豪の言葉を思い出します。到着する便が鉄道から飛行機に変わってきた今日、ベネチアの観光客は再びその正面玄関から入場するようになりました。
但し、途中の運河の両側の生活感あふれる建物には時としておばちゃんのものと思われる巨大な白いパンツが何枚も干してあったりして、正面玄関に至る前に台所と洗面所、物干し場を通過するようになっているのですが…



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たまには、まじめな話を…
パリは移民の街で、アラブ人の人、黒人の人、アルジェリア系、ベトナム系、カンボジア系の人、もちろん華人など多彩な人たちが暮らしていることでは、ニューヨークに近いものがあると思います。しかしそのことがいろいろな軋轢を生んでいるのも事実のようです。私が遭遇した事例は、両方とも川沿いか運河沿いのところで起こったので、どうもそのあたりを根城にこんな運動を展開している人たち(当時の国民戦線「FN」かなぁ)がいたようなのです。
その1
私(セーヌ左岸。ただ歩いている)
五十代後半のおばさん(いきなり私の前に立ちふさがる)
私「パルドン、まだむ?」
オバ「パ・アビタシオン!(ここに住むな!)」
私「ハァ?」
オバ「パ・アビタシオン!(ここに住むな!)」
私「すみません、急いでいるもんで。」
オバ(通してくれる)
私(豆鉄砲くらった鳩状態)
その2
私(北運河のそば。ベンチで地図を見ている)
五十代後半のおばさん(いきなり私の前に立ちふさがる)
オバ「パ・アビタシオン!(ここに住むな!)」
私「ヘ?」
オバ「ここはあんたたちベトナムの住むとこじゃないんだよ!」
私「ハァ?」
オバ「出てけ!」と言って去る。
私(豆鉄砲くらった鳩状態)

ええと、ここには観光に来ただけで来週には帰国するし帰りのチケットもここに持っているし大体ベトナム移民じゃないしお金を落としに来ただけで住むつもりなどこれぽっちもないしお国の映画や音楽が好きで極めつけにはお国で生産された安グルマだって持っているしつまりコヨウをソウシュツしてるわけで感謝されるいわれこそあれ、もしもアンタがブルックリンとかクィーンズとかへたするとロワーマンハッタンとかでも同じようなことを言ったりしたらほとんどイノチが危ない状態でイーストリバーに簀巻きでドボンを覚悟しなきゃいけないのにずいぶんじゃありませんかええオバサンよぉ…などという考えが頭の中をぐるぐる回りだしたのはしばらくたってからでした。
その後数日は、中国系やカンボジア系のお店だけで食事をして多めにチップを置き、ベトナム系の運転手さんのタクシーに乗り、アフリカ系の人には丁寧に挨拶し、アラブ系の人にはにっこりし、パリ先住民の皆さんには…

しばらくたってから、パリに長期滞在した人(美人)に「どうだった?」と話を聞いたところ、「話しかけてくる人が多かったよ。」とのこと。
「ひょっとして、『出ていけ!』とか?」
「いや、『わたし日本語を勉強してるんですけど、練習させてくれませんか?』だって。」
「人は見た目が90%」が流行っているころでした。